石井筆子

明治、大正、昭和の時代にかけ、女性の社会的地位と障害者の向上に生涯を捧げた石井筆子の業績は、殆ど知られていません。
自らも女性であることの桎梏に苦しみ、社会的弱者とされてきた弱い立場の人々への教育と人権確保に信念を貫き通した石井筆子の足跡を辿りつつ、その壮絶な人生を浮き彫りにし、歴史の表舞台では語られることの無かったわが国の女性史、女子教育史、福祉史の断面に迫ります。






                           


1861年・文久元年に肥前大村玖島に生まれた石井筆子は、若くしてアメリカ18代大統領・グラントに拝謁したのをはじめ、2年間にわたるフランス留学や、お雇い外国人や宣教師の家族たちとの交流を通して、早くから開明思想にめざめていた。
家父長的家族制度のもとでの男性優位における女子教育は良妻賢母養成が主で、自立のための教育とは無縁だった。
だが、筆子は、仕事と家庭の両立を果たす一方、女子教育の振興をはかるための民間の組織「大日本婦人教育会」の活動に邁進する。


筆子は3人の娘を授かったが2人は早逝し、残る長女には知的な障害があった。さらに夫は病弱で若くして死別という度重なる不幸が筆子を襲った。
幼い子供を抱えながら筆子は、
1898年、「大日本婦人教育会」の雑誌に「思ひ出つるまヽに」という論考を発表。

人権思想に基づいた男女平等論を訴えた。
 

      石井亮一
 

 同年、筆子は、女子英学塾(現・津田塾大学)の創設者である津田梅子とともに、
 米国・デンバー市で開かれた「万国婦人倶楽部会議」に日本婦人を代表して出席、
 米国の女子教育と福祉の状況を見学して帰国した。 
 
 このアメリカ旅行を契機に筆子の人生は一変する。後半生の
筆子は、華やかな表舞台
 から一切の身をひき、わが国で最初の知的障害児の施設・滝乃川学園の創立者である
 石井亮一の協働者として滝乃川学園の運営と保母の養成に砕身粉骨する。

 佐賀葉隠れ武士の家に生まれた亮一は、濃尾地震で孤児となった幼い少女のための
 「聖三一 孤女学院」を開いていたが、その中に知的障害を持った少女がいたことが
 きっかけとなって、亮一を知的障害児教育の研究にむかわせていた。
 
 だが、知的障害児をに対する社会の理解も国の施策も皆無の時代、学園の運営は
 想像を絶した厳しい状況におかれていた。
 それでも二人はキリスト者としての深い人間愛で、人権思想に根ざした教育の
 実践に邁進する。
 
 それはまさに、いばら路を切り拓く壮絶な戦いでもあった