風の舞
〜闇を開く光の詩〜

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     制作メモ 紆余曲折を経て  製作実現までの過程  

  
青松園から観た風景 
 私が「風の舞〜闇を拓く光の詩」の主人公・塔和子さんに出会ったのは1999年4月。とある新聞に、塔さんの『記憶の川で』に高見順賞が贈られたとの記事が掲載されたのを読み、彼女の詩に魅せられて、瀬戸内の離島にある大島青松園に塔さんを訪ねたのが最初である。
その当時、私はハンセン病には漠然とした関心はあったものの、その問題の深さ迄はほとんどと言っていいくらい認識は弱かった。塔さんと出会った当初、私は彼女の詩の世界の映像化を考えていた。私にとっては塔さんは『ハンセン病もと患者』ではなく尊敬する一人の詩人だった。だが、塔さんとの会話を重ねる中で、あるいは少しの時間でも共有する中で、私はハンセン病問題を抜きにしては塔さんを語ることはできないのでは、と思うようになった。


最初に塔さんを訪ねたときには、夫の赤沢正美さんもご健在で、二人は病棟管理の寮舎で仲良く肩を寄せ合って暮らしていた。赤沢さんは後遺症が重く、両方の目が全く視力を失っていた上、喉も気管切開をしていたために声もほとんどでない状態だった。赤沢さんがタバコを吸うとき、塔さんは大きなマッチ箱を曲がった指でつかみ、火をつけ、赤沢さんの口元にもって行く。美味しそうにタバコを吸う赤澤さんの口元から出る煙を見ながら、塔さんは大きな空き缶の灰皿を前に差し出し、赤沢さんの手をそれに導く。障害を持った夫婦の何ともいえないほほえましい光景を見ながら、私は、塔さんの詩はハンセン病の療養所の中で生まれた詩であるという事実の重みを思い知った。 


そして、その詩が生まれた背景を知りたいとハンセン病に関する書物を読み、療養所に暮らす人々の話を聞き、映画製作への思いを強くしていった。 だが、思いはふくらむものの、製作の入り口までにはかなりの時間を必要とした。


当時、私は、福祉教材や社会教育教材などを製作・販売するプロダクションの取締役で、福祉関連の映像作品のプロデュース・監督として寝る間のない多忙な日々を送っていた。自主作品にも力を入れていたためにそのための企画に常に追われながら、一人の映画人としての作品づくりへの思いも強いものがあった。その一つがハンセン病をテーマとしたこの映画であった。


塔和子さんだが、社内の反響はすこぶる悪く、「ハンセン病」といっただけで激しい拒否反応を示すばかりでまともに企画の話を聞こうという雰囲気ではなかった。ハンセン病のようなマイナーなテーマを取り上げられては会社の看板に傷がつくと、その話題が出ただけで周囲は白けた。ましてや製作費の工面などの裏付けが無くては話は進まない。

ただただ、企画の実現できないもどかしさを胸に、日々の業務に負われる中で月日は過ぎていった。


その間に、夫の赤沢さんが亡くなり、国の違憲性を訴えたハンセン病元患者たちが提訴した
「国家賠償請求訴訟」に対して原告勝利の歴史的判決がくだされ、更には,赤沢さんの死に直面された塔さんご自身が、悲しみのあまり心身の機能が低下するなど、塔さんを巡る事態は大きく変化していった。
そうした事態を遠くに見ながら、一時製作は実現不可能かと私は焦った。


そんなとき、先輩監督の口利きで企画に賛同する配給会社が現れた。製作費の全額を出してもいいとのありがたい申し出に、私の心は再び激しく燃え始めた。そして猛反対する社内の意見を半ば強引に押し切った形で企画の実現化への具体的準備に入った。 
結局、著作権の関係で配給会社へは配給権の譲渡という形で協力を願うことになったが、社内への意見調整に使うエネルギーと共に、実際に取材となると、ハンセン病関連の関係機関との調整にもかなりの時間を要した。


塔和子さんと監督そして、何よりも、映画の舞台となる国立療養所大島青松園の自治会と入所者の方々の了解、協力が欠かせない。更に塔さんのお身内の方の了解は重要である。数ヶ月に渡って、これら目の前に立ちはだかる課題を一つ一つクリアーし、幸いなことにその過程では物心両面に多くの方々の協力や賛同を得ることもでき、製作資金面ではやや見切り発車の状態であったが、やっと本格的な取材をスタートさせることができた。

それは塔和子さんとの最初の出会いから3年数ヶ月後のことであった。
取材は2003年9月〜2003年2月までの6ヶ月間、7回ほど東京・高松間を往復し、約40日間を、青松園のご好意により合宿生活を続けながら行った。


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